翻訳と辞書
Words near each other
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公)
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム (ナッサウ=ヴァイルブルク侯)
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク公)
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=エールス公)
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯)
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (ザクセン=ヴァイマル公)
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム2世
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム4世
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム・アルゲランダー
・ フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王) : ウィキペディア日本語版
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)[ふりーどりひう゛ぃるへるむ1せい]

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世Friedrich Wilhelm I., 1688年8月14日 - 1740年5月31日)は、第2代の「プロイセンにおける王」。粗暴で無教養だったが、財政・軍制の改革によってブランデンブルク=プロイセンの強大化に努め、兵隊王(または軍人王、Soldatenkönig)とあだ名された。
== 生涯 ==

=== 生い立ち ===
1688年8月14日、後に「プロイセンにおける王フリードリヒ1世となるブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世とその妻ゾフィー・シャルロッテハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの娘)との間に生まれた。
1689年から1692年までハノーファーの祖母ゾフィー・フォン・ハノーファーに育てられ、その後ドーハ城伯アレクサンダーやユグノーのジャン・フィリップ・ロビュールらによって教育を受けた。1698年の10歳の誕生日には父からヴスターハウゼンの荘園を贈られ、1701年のフリードリヒ1世の即位に伴ってオラーニエン公となった。
1706年11月28日、王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は母方の伯父ハノーファー選帝侯ゲオルク1世(後のイギリス国王ジョージ1世)の娘で従姉に当たるブラウンシュヴァイク=リューネブルク=ハノーファー公女ゾフィー・ドロテアと結婚した。ゾフィー・ドロテアとの間には、4人は早世したものの計14人の子供を儲け、ロココ時代の君主のならいであるような多情を抱かなかった。
1713年2月25日、父王の死によってプロイセン王位を継承したが、フリードリヒ1世の浪費によってこの時のプロイセンは破産寸前だった。こうして新王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は軍事・財政の全般的な改革に乗り出すことになる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.